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「京大落ち同志社」の知られざる実態

同志社大学には京都大学を志望していた人が進学することがあります。そんな彼らの知られざる実態と、「その後」を同志社大学OBの私が解説します。

京都大学に落ちて同志社大学に進学する動機

京都大学と同志社大学の間には鴨川という京都を代表する川が流れているだけでなく、偏差値にも大きな差があります。本気で京大を目指していたのなら同志社ではなく、せめて早慶に進学するだろうと思いがちですが、そうはならなかった理由を本人たちから直接聞いた話をもとにまとめます。

一人暮らしを許されなかった

私の身の回りには3人の「京大落ち」がいました。内1人は女子です。

その女子は四天王寺(関西トップクラスの女子中高)の出身で、大学受験のときに京大を目指していたという話を何度も私にしてくれました。彼女が言うには、親が「東京行き」を許してくれなかったとのことです。そんな彼女も就活で超優良企業に内定し、今では東京の都心でバリバリ働いていますが特に女子の場合、親が一人暮らしを許してくれないケースが少なからずあるようです。なお、私が知る「京大落ち」は3人とも関西出身者です。

京大落ち同志社ではないですが、阪大落ち立命館の女子の友人(大手前高校出身)も早慶を受けさせてもらえなかったと言っていました(関西の国際系の学部のみ受験し、同志社も落ちた)

浪人を許されなかった

前述の女子と、また別の男子の友人(関西の有名中高一貫校出身)が話してくれたのが、親が浪人を許してくれなかったという話です。

二人とも中高一貫校出身で、実家は経済的にやや豊かな家庭環境のように見えましたが、親が浪人を許してくれなかったと、聞いてもいないのに何度か話してくれました。また、前述の阪大落ち立命館の友人は母子家庭で浪人させてもらえなかったと言っていました。

周りから見た「京大落ち同志社」

私は同志社が第一志望で、関東の中高一貫校(東大合格者10人未満の学校)から同志社に進学しました。そんな私は入学当初「京大落ち」の人が同志社にいることを信じられず、京大落ちを自称していた前述の四天王寺出身の友人に対しても「何を言っているのか」という感情を当初持ちましたが、付き合いが深まるにつれて彼女の頭の性能が自分とは次元が異なることをまざまざを見せつけられ、彼女が自分とはステージが異なる存在であることを一回生の夏前には納得させられました。

「自称京大落ち」の中には若干疑わしい人がいたのも事実ですが、京大落ちの北野高校出身の先輩も大変聡明な方で、やはり異次元の存在のように感じられました。

京大落ち同志社の「その後」

超優良企業に就職する人も

四天王寺出身の友人は平均年収が1000万円を超える情報サービス企業(システムインテグレーター系)に、また別の男の先輩(北野高校出身)は某大手食品メーカーに就職しました。前述の男子の友人は関西で地方公務員に、ちなみに阪大落ち立命館の友人は大手生命保険会社で働いています。サンプル数が少ないため断定は避けますが、同志社第一志望組、あるいは指定校推薦や内部進学者よりも内定先のレベルは高いように思います。

四天王寺出身の友人は大学入学後も「京大に落ちた」という悔しい経験を原動力に、1回生の頃からモリモリと勉強やバイト、サークルとあらゆる活動に精力的に取り組み、夜行バスで東京と関西を何度も往復しながら就職活動を続け、多数の内定(東証プライム上場企業ばかり5社以上)を得ていました。大学時代の4年間を通じて交流がありましたが、きわめて聡明でそれだけでなく努力を継続できる人で尊敬できる友人でした。

新島襄のことば

同志社の創立者、新島襄は「わが校の門をくぐりたる者は、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学家になるもよし。かつ少々角あるも可。奇骨あるも可。ただかの優柔不断にして案逸をむさぼり、いやしくも姑息の計をなすがごとき軟骨漢にはけっしてならぬこと。これ予の切に望み、ひとえに願うところなり」と語っています。

同志社にはさまざまな人を受け入れる懐の深さがあります。不本意ながら同志社に入学した人も、努力を続けることでその後の人生をより良いものとすることができます。